「歴史とは何か」。
英国の外交官で歴史家でもあるEH・カーはその著書の中で「歴史は現在と過去の対話である」と述べています。加えて、私たちは現在も様々な歴史観を持って生きています。一つの事象でも、観点によってはその価値観は大きく変化します。たとえ「客観的」に歴史を捉えているつもりでも、他方からすればそれが「主観的」にみられたりする場合もあるのです。しかし、それでも過去との対話は私たち人類が、唯一未来を探る術であることは揺るぎありません。

 

現在、当館で開催されている企画展「海と大地の残火―紡がれる記憶と未来へ刻む歴史―」は、一見すると全体として確たるメッセージ性が無いように感じられるかもしれません。しかし、約200点におよぶ展示品から発せられるメッセージは必ずしも一つだけではないと考えています。それは、私たちの地域から輩出された先達が戦前や戦時下において、様々な立場にあったことはもちろんですが、ご観覧頂いた皆さまが積み重ねられてきた歴史から感取し、学んだ内容こそが何よりも重要であると考えるからです。本展における過去との対話とは、戦火に身を投じた先人たちとの対話でもあるのです。

こうした先人のまなざしから歴史を学ぶことで、郷土の肖像を捉え、そこから地域の未来像を描くことこそが一地方の「まちの資料館」たる当館の担うべき使命であると考えております。

終戦70年という一つの節目にあって、本展が皆さまにとって過去を学び、未来を探ることへの一助となることができれば幸甚の至りです。

 

日本にとって近現代おける戦争とはいったいどんなものだったのでしょうか。

 1904年から翌年にかけての日露戦争は日英同盟を後ろ盾とした日本が、有利な条件で講和条約を進め、南下政策により朝鮮半島進出を目指すロシアを中国満州から排除することに成功しました。この戦争は旅順要塞陥落や日本海海戦を制するなど、戦略的勝利で日本はこの戦争を辛うじて乗り切りますが、その実情はこれ以上の戦争継続は困難な状況に達していたといわれます。

しかし、当初の下馬評を覆しロシアを退けた日本に世界は驚愕しました。とりわけ欧米諸国にとっては「白人国家」を「非白人国家」が打ち破る初の事例となり、実情とは裏腹に日本脅威論が高まっていくこととなります。また戦時中、日本側の工作によるロシア国内での革命運動は結果的に社会主義国家「ソビエト連邦」を誕生させる遠因にもなりました。

 

1914年、日英同盟に基づき日本は第一次世界大戦に参戦。日本軍はドイツ東洋艦隊の根拠地だった青島とドイツ領であった南洋諸島を攻略。また、イギリスやフランスのアジアにおける領土からヨーロッパに向かう輸送船団の護衛を日本海軍が担いました。さらに、戦争の長期化が予想されるようになると、イギリス、フランス、ロシアは日本陸軍をヨーロッパ戦線に派遣するよう求めましたが、日本は国益に直接関与しない外征に参加することはできないと、その要請を拒みます。しかし、1917年にロシア革命が勃発すると、ロシアへの出兵の余裕がないイギリスとフランスの依頼により、陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対してシベリア出兵が打診され、1919年にはアメリカと共同歩調を取ってシベリア出兵を実施。その後、他国が兵を戻す中で日本がシベリア出兵を継続したことで各国の猜疑を招くことになり、次第に国際的立場が厳しいものとなっていきます。また、シベリア出兵の継続により、日本がロシアや中国においてアメリカの利権を侵すのではないかという疑いも持たれました。
日本国内においても政府が御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わず緊急会議のみで参戦を決定したことが、後に政府と軍部との軋轢を招くことになります。
戦後は連合国の勝利に貢献したことにより日本はパリ講和条約に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの権益であった中国山東省とパラオやマーシャル諸島などの南洋諸島を委託統治領として譲り受け、さらに国際連盟の常任理事国となりました。
その一方で、軍需品の受注などで好景気に沸いた日本経済は一転して戦後恐慌に見舞われ、さらにアメリカが統治するハワイやフィリピンの中間に位置する南洋諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けたことで、日本がアジア太平洋地域において排他的経済ブロックを構築し、アメリカによるアジアへの経済進出を阻害するのではないかとの懸念を増大させる結果を招きました。そしてアメリカは日英同盟を撤廃するようイギリに働きかけ、日本が国際連盟で主張した人種差別撤廃案に対しても強硬に反対。さらにアメリカ国内では排日移民法によって日本からアメリカへの移民を禁止しました。
大正デモクラシーによる民主化と英米との協調外交を指向していた日本でしたが、こうしたアメリカによる敵対的行動に対して、反米感情が高まり次第に日米関係は悪化することとなります。アメリカとの対立と日英同盟の撤廃、日露戦争以後は友邦となっていたロシアが革命に倒れ共産化したことも重なって、日本は同盟国を持たない状態となり、その結果としてドイツ、イタリアへ接近したことは、その後の世界大戦を予見させる展開だったといえます。

 
海軍力、即ち艦艇保有数が抑止力となっていた時代。
1923年、海軍の戦艦建造競争を抑止する目的でワシントン海軍軍縮会議が開催されると、「日本3:英5:米5」という日本に不平等な保有トン数制限が課せられました。次いで開催されたジュネーブ海軍軍縮会議には、当時の朝鮮総督だった水沢出身の齋藤實が首席全権委員として参加。巡洋艦などの補助軍艦を巡って英米が対立する中、齋藤は調停役の立場をとりましたが、論争は物別れに終わり、その後のロンドン海軍軍縮条約では戦艦以外の補助軍艦の比率がさらに制限されることとなります。こうした国際軍事均衡とともに世界規模の経済恐慌が吹き荒れる中、国内でも圧縮財政が目下の課題となり、農村の困窮や軍部内の対立などの要因も重なり、そうした社会不安を背景としながら満州事変から満州国の建国、そして国際連盟脱退といった一連の流れへと時代が動き出した。また、社会的動揺からなる不満の矛先は政治にも向けられ、1932に犬養毅首相が「5.15事件」で海軍青年将校に殺害され、1936年の「2.26」事件では閣僚の齋藤實、高橋是清らが陸軍青年将校による凶弾に倒れ、政党内閣が失われます。

1937年には盧溝橋事件を発端に支那事変(日中戦争)が勃発。当初、政府は短期間での収拾を見込んでいたものの、次第に「事変」と呼べなくなるほどに戦闘は激化していき、その後は国民総動員による臨戦体制を固めてゆくことになります。

ヨーロッパでは1939年にドイツとソ連が相次いでポーランドへ進行し、欧州での第二次世界大戦が勃発。その翌年にドイツはフランスを破り、パリを占領下に置きます。こうしたドイツ有利の状況を確認すると、日本でも三国同盟の締結論が浮上し、同時にオランダ領インドネシアやマレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まっていきます。

日本、ドイツ、イタリアによる三国同盟が締結されると、アメリカは在米日本資産を凍結。日本に対する石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもこれに同調しました。日本政府はアメリカとの戦争を躊躇し外交交渉を重ねますが、戦争機運が高まる世論と開戦を訴える強硬論を背景に、ついに対米開戦を決意。

開戦にあたり当時の首相、東条英機は国民に向けた決意表明の中で次のように述べています。

 

 およその勝利の要訣は「必勝の信念」を堅持することであります。

 建国2600年、我等は未だ嘗て戦いに敗れたるを知りません。

 
かくして日本は、アメリカを始めとする連合国との戦端を開きました。

 

開戦当時、米軍の約2倍におよぶ海軍戦力を有していた日本軍は、緒戦こそは有利な展開にありましたが、ミッドウェー海戦で主力空母機動艦隊を壊滅させる損害を受けると艦隊戦は劣勢へと傾き、南方資源地帯との交通輸送が遮断されるなど陸戦へも影響を与えることになります。さらに、1944年のレイテ沖海戦では「武蔵」を始めとする戦艦と巡洋艦以下を多数失い、翌年には「大和」も撃沈されます。大戦末期に日本本土も空襲に曝されるようになると、燃料不足で行動できない艦艇は次々と軍港内で沈められ、終戦時に海面に浮かんでいたのは「長門」唯一隻という大敗状況でした。

また、陸戦においては部隊の全滅に「玉砕」「総員壮烈なる戦死」という表現が用いられ、1943年にはアッツ島、ギルバート諸島の守備隊、44年にはマーシャル諸島、ビアク島、サイパン島、テニアン島、グアム島、拉孟・騰越、アンガウル島、ペリリュー島の守備隊、45年には硫黄島、そして沖縄守備隊が全滅しました。もちろん、命を落としたのは将兵ばかりではなく、多くの民間人も含まれていたことはいうまでもありません。また、サイパン島が陥落したことで米軍は日本本土爆撃の拠点を得ることとなり、東京大空襲をはじめ各都市部への爆撃が実行されることとなります。

戦局が絶望的なると、軍部は本土決戦を主張し「一億玉砕」というスローガンを訴えるようになります。なお、当時の日本本土の人口は7,000万人程で、この「一億」の中には満州、朝鮮半島、台湾、南洋諸島などの地域居住者を含んでいたことがうかがえます。

また、この大戦は緒戦から航空機の優位性が実証される結果となり、戦艦の時代の終焉を裏付けるものでもありました。開戦から真珠湾攻撃、南方侵攻作戦での日本陸海軍航空隊の活躍は画期的なものでしたが、次第に地理的劣勢、飛行場建設や補給など総合力で限界点に達し多大な損害を招くことになります。さらに、レーダー警戒網と効率的な管制および濃密な防空火器を備えたアメリカ機動部隊に有効な打撃を与えることができず、ついには「神風特別攻撃隊」が生まれ、同時に「桜花」などの特攻専用機も開発されました。

1945年、日本軍の制空権と制海権はほぼ消失し、日本近海には連合軍の艦艇が終結。日本の軍事的敗北は決定的となりました。そうした中で米英中の首脳の名において、日本に降伏を求めるポツダム宣言が発表されますが、日本政府はこれを黙殺。アメリカ軍は史上初となる原子爆弾の使用を決定し、広島にウラン型、長崎にプルトニウム型という2種類の原子爆弾を投下。その死亡者数は放射能汚染による被害も含め、20万人を超える規模でした。また、この年の2月、クリミア半島のヤルタ近郊において、アメリカ、イギリス、ソ連の各首脳による会談「ヤルタ会談」が開催され、ソ連の対日参戦や国際連合の設立について協議されたほか、大戦後における国際秩序規定の名目でドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害調整が行われました。

日ソ中立条約を結んでいたソ連は、4月にその期限を迎えると条約を破棄。8月9日に対日宣戦を布告して満州への侵攻を開始します。満州国に駐留していた陸軍は総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなりました。また、ソ連参戦による満州、南樺太、千島列島などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留され、この抑留によって10万人を超える死者を出しました。

814日、昭和天皇の聖断により終戦の詔書が発せられ日本政府はポツダム宣言を受諾。翌日には玉音放送が放送されました。その一方で、武装解除した日本に対しソ連軍の侵攻は止まず、9月2日の降伏調印後も攻撃は継続され、南樺太や千島列島にとどまらず、帝政ロシア時代から日本の固有の領土であった歯舞島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島にまで侵攻して9月5日に一方的な戦闘を終了しました。

 

戦闘は終わりましたが、戦争はこれで終了ではありませんでした。アメリカによる占領政策と戦後処理。旧日本領や海外にいた日本人の引き揚げと復員。領土問題など、多くの問題を抱え、その中には現在も未解決の課題もあり、戦後70年を迎えた今日およびこの先の未来もそれらの問題と向き合っていかなくてはなりません。

 

戦前から大戦への歴史、戦中戦後の日本に対する評価は様々あります。また、現在の価値観では理解し難い当時の信条心理があることも否めません。しかし、こうした歴史の積み重ねの中から、私たちが学ぶべきことは数多くあるはずです。

また、軍人として戦前の海軍を率い、朝鮮総督として朝鮮での施政を担い、政治家として数々の政治的決断を下した齋藤實。台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁として日本の大陸進出を支えた後藤新平。外務省や陸軍参謀本部の妨害に遭いながらも中国国民党政府との和平工作に努め、大戦末期にはヤルタ会談後にソ連が対日宣戦するとの最高機密情報を日本に送った陸軍少将、小野寺信。三菱重工を率い、東条英機の内閣顧問も務めた郷古潔。こうした地域の先達たちにとって、戦争とはどのようものだったのでしょうか。

現代に生きる私たちにとっても、それは筆舌に尽くしがたい苦難の時代だったかもしれません。しかし、その記憶を鮮明に紡ぐことの重要性は今後もさらに高まっていくことでしょう。そして、より良い地域の未来を築くための過去との対話をこれからも続けていかなくてはならないのです。

 

70年目の終戦の日に寄せて


ポスター(圧縮)

江刺地方より「まごころ」をこめて。

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